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毎日がお葬式

実際の葬儀を担当している中原屋 原敏之が綴る、お葬式情報ブログ。

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「清めの塩」につかう塩

2015年6月17日 14:15

前々回のブログ≪「清めの塩」とは≫でお話ししたように、会葬礼状に「清めの塩」をつけないケースがあります。

亡くなられたからといって不浄なことではないという考えからです。私も思います。親友が亡くなった場合などは特にそうです。

今までの慣習で塩で清めるということが多いですが、その方の気持ちが大切だと私は思っております。

では塩をいただいてこなかった場合に清めたい時はどうするのか・・・
料理用の塩でも大丈夫です。
ただし料理用の塩ですと、服についてなかなか落ちないことがありますが・・。

夏の蒸し暑い日に料理用の塩を玄関先でまいたら、ベタッと溶けてしまい、玄関の石に染みのようになってしまった。けれども清めのために撒いた塩をすぐに水で洗い流していいものなのかどうか困ったという話もあります。

本当のお塩を服にふりかけるとなかなか落ちませんが、お清め専用の塩は手でたはくと簡単に落とせるんです。よって食べることはできません。

もし、お清め専用の塩が無くて料理用の塩をまいたときには、 すぐにはいても洗っても良いと思います。当社でもそうしています。
昔は自宅葬にて自宅(集会場)から出棺されたあとは、当社では塩をまいてほうきで外に掃出しました。今は自宅施行や集会所施行がめっきり少なくなりましたが。

私は・・・    (・ノェ・)コッソリ
葬儀や死とは関係なく、いつも清め塩を財布に入れて持ち歩いています。
いやなことや、悪いことがあった時に自分にふりかけたりしています。

 

 

 

<関連ブログ>

「清めの塩」とは

「清めの塩」の使い方

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「清めの塩」の使い方

2015年6月10日 17:45

ご自身で礼状などについている塩を掛けます。足元にかけます。

関東では、塩を振りかけることが多いですが、
関西(京都)では踏み塩を用意することもあります。青竹で枠をとってつくり、その上を歩いて清める形をとります。

川崎では礼状やお返し物につけています。
当社のお清め塩、実はオリジナルなんです。
しかもデザインはわたしの描き下ろしです(^v^)
こだわりです。色も綺麗です。

清め塩ブログ用      清め塩(背景青→緑・花縁無)新ブログ用

「テッポウユリ」の絵です。
「なぜユリなの?」と聞かれたので。
以下の通りです。

テッポウユリは、創業時の当社の社章として先代が使っていました。
中原屋の「中」という字にテッポウユリをからませたデザインでした。
その創業時のテッポウユリをモチーフしました。

「温故知新」は私の土台と考えています。
何かの機会に見て下さい。

 

 

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「清めの塩」とは

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「清めの塩」とは

2015年6月3日 12:03

葬儀に参列しますと、会葬礼状や返礼品と共に清め塩が付いています。
宗教宗派によって使用するしないは分かれますが、基本的には付けるケースが多いです。
「お清め塩」と呼ばれるように「清める」という意味が強いです。

それは神道において「死を穢れ」という考えからきております。
自身にかけることで、穢れを落とす又は不幸を避けるという意味があるのです。

仏教でも「お清め塩」を使用しますが、仏教観では死を穢れとはとらえない考え方もありますので、付けない宗派もあります。
その際は、「お清め塩を使用しない理由」という冊子を入れたりします。

「今まで家族で過ごした方が、亡くなられたら穢れた方になるのですか?」という内容の冊子です。その通りだなと私も思います。

ただ、会葬者から考えればそうではないのかもしれません。
塩はいらないことを理解されている方ばかりではありませんので、ホールなどの入口に「ご自由にお持ち帰りください」とおいております。
(たまにご寺院より注意されますが・・。)

*** ご参考 ***
礼状と共に塩を入れない時に入れる冊子の一文。

~私たちは「清め塩」を使いません~

清め塩は迷信です。

魔を祓うために棺の上に刃物をのせたり、火葬場で遺骨の箸渡しをするなど、葬儀では、仏教とは無縁の迷信的な風習が伝えられています。

「清め塩」も、そのひとつです。

清め塩は葬儀の際、玄関先に置かれたり、会葬者に礼状とともに渡され、清めることをごく当たり前のように思っている人が多いようです。

「死」は穢れたものではありません。

しかし、この塩で、いったい何を清めるとするのでしょうか。

日本には古くから「死を穢れ」とする考えがありました。

その理由は様々伝えられていますが、いずれにしても「死(者)」に触れ関わることは、わが身も穢れ、そして生者に死をもたらすと考えられたのでした。

今日でも「四」の数字が「死」を連想させることから忌み嫌われ、病院やホテルに四号室が見られないのもそのためです。

けれども、生前に父よ母よ、兄弟よ、友よと呼び親しんできた方を、亡くなった途端に穢れたものとして「お清め」していくことは、何とも無残であり、悲しく痛ましい行為ではないでしょうか。

死もまた吾等なり

仏教では決して死を穢れとは受け止めません。

生と死を分けるのではなく「死もまた吾等なり」と受け止め、生死するいのち

精いっぱいに生きていくことこそ、人間としての生き方であると教えています。

清めの行為は亡き人を貶めていくばかりでなく、自身の生き方をも曖昧にさせる迷信であり、一切不必要なのです。

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